季刊身体雑誌

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2010年6月21日月曜日

なぜ「身体」なのか―1

 1 手思足考
 身体についての雑誌を作ろうと思い立ったのは、もう20年もまえのことになる。自分の頭の働き具合と身体の動きがちょうど釣り合ってきたかな……と思われた時期でもあった。
 それまでは、頭が考えることは、何でもできる。体はそういう要求に十分に応えていると思っていたのだ。ところが40代の半ばを過ぎたころから、頭で考えることの半分もできていない、そう思うことが増えてきたのである。だからと言って、そのころも、つい先年までも“五体満足”だったから、日常生活で不自由するということではない。そうではなくて、青春期から壮年期まで、それほど気にすることもなく過ごしてきた、理想と現実のギャップというか、夢とうつつの乖離とでも言おうか、そういう問題に突き当たってしまったのである。それまでも、実社会にあれば誰でも理想と現実のヤップなどは、ごく当たり前にぶつかることである、ただ、それでもまだ壮年期までなら、これくらいのギャップは自分の努力で埋めることができるとか、夢はまだ実現できる、という希望を持っていられる(あるいは、希望にすがっていられる)のでもある。なにしろ理想や夢は、もともとは頭で考えるだけで済むようなことでもあるからだ。しかし、中年期にさしかかると、理想や、夢の実現の不可能さ加減ということが、頭の中だけでなく、自分の身体の体験、実感としても感じられるようになってきたのだ。これは、あまり嬉しいことではない。スポーツの選手なら「引退」というようなことでもあろう。中年期の危機でもある。
 そんなことを考え、また実際に身体も歳相応にしか動かないなぁ……と思い始めていたときに、出会ったのが「手思足考」という言葉であった。
 竹橋にある近代美術館の工芸館で開かれていた陶芸家の河井寛次郎展の会場でのことだった。会場に書が展示されていた記憶はないから、そこにあった年譜か解説文か何かで見た(読んだ)のだろう。その時に思ったことは「なぁんだ、そうか(陶芸をやるのに)頭はいらないんだ(!)」という驚きであった。
 試みに、今この言葉を検索してみると、河井寛次郎関連のサイトはもちろん、ジャーナリスト、工芸作家、大学の研究室、建築家のホームページ、園芸家のブログから、無農薬野菜の通販サイトまで、じつに様々仕事に携わっている人たちが、この手思足考を引用しているのだ。河井寛治郎の言葉がこれほど多くの人々に知られ、それぞれの人に勇気や、やる気、あるいは人それぞれの道を行くことの確信の言葉として、使われていることに、改めて感心したのだが、20数年前には考えられないことだった。
 私はただ単純に「頭はいらない」と理解しただけだったし、それで十分だった。

2 Hand to mouth
その後の何年間か、貧乏暮らし、その日暮らしが続いた。今、相変わらず金は無いが、パソコンを使うくらいの少し余裕が出来て、「その日暮らし」を英訳すると「Hand to mouth」で、あぁ、やっぱりここでも「頭はいらないんだ」と、シャレ混じりに書くことも出来るのだが、そのころの日々を思い出すと、実際、頭で考える余裕なんか無い、朝飯もそこそこに働きに出て、夜帰れば、晩飯食ってバタンQと寝てしまう、という暮らしだった。 


 

未完 まだ続きます