季刊身体雑誌

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2010年9月2日木曜日

参考 リキテンシュテイン

スーパーアクリックスキン


松浦浩之さんの個展"SuperAcrylic Skin"を見てきた。
大きいものは、2メートルくらいの高さもあろうか、特製のパネルにアクリルで、アニメのキャラクターのようなキャラクター(!)が描かれている。これは、実物を見ないとなかなかその芸術性を実感できないのではないかと思った。同じようなアイデア、と言ったら、引用するアーチストの方々に失礼だろうが、ほかにいい言い方を思いつかないので「アイデア」といわせてもらうとして、'60年代のポップアートのスーパースターの一人であるロイ・リキテンシュタインを、私は思い浮かべていた。リキテンシュタインのほうは漫画(アメ・コミ)の1コマを、印刷の網(アミ)点まで拡大強調して描くという技法で、その時代(アメリカはベトナムで戦争をしていたのだ!が)に美術(家)として、かかわっていた(とされる)。時代に対する姿勢とか、状況へのコミットの仕方などのことは、実は個々の作品、作家にはかかわりのないことも多いのだから、無理やりと言うか、批評家的に関連付けをしたりしていう必要はないと、私は思う。だから、アメ・コミの1コマを引用したリキテンシュタイン、アニメのようなキャラの松浦さんのを、モチーフとかテーマと言わないで、「アイデア」とあえて言うわけだが、両者に共通することは、引用元(松浦さんの場合は、引用ではなくキャラクターもオリジナルなのだが)の拡大と画材(絵の具)の選択ではなかろうかということだ。例えば、と夢想するのだが、リキテンシュタインも松浦作品も、シルクスクリーンでやったら意味がない。そこのところが、版画のウオホールと違うと思うのだが、あくまでタブローとして、手で、しかも綿密に(はたから素人目で見ると、何でここまでやるのか、馬鹿ばかしい、と思えるほど)丁寧に描かれているのが、実物を見るとわかってくる。例えば、松浦作品はすべて、アニメのような透明感のある画質をアクリル絵の具で表現している。このこだわりようが、私には、面白かったし、芸術作品はこうでなくっやぁと、思えたのだ。リキテンシュタインも実物を見ると、アホらしいほど律儀に“点々”を描いているのだ。絵を描くという作家のいとなみの意味(無意味)も理解できるのだ。これを芸術作品を前にして、見るものが受けとる感動と言う。【続く】

2010年8月30日月曜日

生まれて初めての塗り絵


私は大脳皮質基底核変性症という難病で、現在右半身が麻痺。週に2回、通所デイサービスのお世話になっている。私の場合、病気の進行が早いのかどうか。去年の今頃はまだ麻痺も今ほどはなく、自分で車を運転して病院に通院していたのだが、一年たたない現在は、車椅子の生活である。そんな毎日で、右手の自由はほとんど利かないから、食事はもちろん、細々した生活の一切は左手に頼るしかない。右手では文字も書けないし、まして絵を描くなどは思いもよらず、以前は趣味でやっていた水彩画の写生もあきらめていた。
 そんなときに、デイのレクリエーションで塗り絵の機会があったのだ。大人が楽しめる塗り絵といったものがあると、聞いたことはあったのだが、健常な頃は見向きもしなかったし、病気になってからは心のゆとりも無くしていたから、デイで実際に手にするまでは、自分がやろうとは、思ってもいなかった。実を言うとレクの時間が始まっても、半信半疑、塗り絵なんて子供だましな……と思ったり、どうせ左手では満足に塗れそうもないから、適当に過ごそうと思っていたのである。
 それが、いざ始めてみるとけっこう面白いどころか、いつの間にか熱中、時間がたつのも忘れて夢中になっていたのである。ふと顔を上げてまわりを見ると、早々と仕上げた人は、いつものようにお喋りをしているようだが、90歳のAさんや85歳のKさんは、まだ紙に顔をくっつけるようにクレパスを持ち熱中している。私も、色鉛筆で仕上げた自分の作品を眺め、不思議な気分がしていたのだ。色を塗るだけのことに何故、みんなこれほど夢中になれるのか、いまだに解らないのだが、楽しく我を忘れるひと時ではあったのだ。この年になると、生まれて初めての体験をするなどという機会はめったにない。塗り絵は、私にとって、そんな稀有な体験をした嬉しい驚きでもあったのだ。