季刊身体雑誌

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2010年12月9日木曜日

非eの世界:第一話


ポストのない家と家のないポストの話
今の世の中、ポスト(郵便受け)のない家はない。一戸建ての家でも、マンション、アパートといった集合住宅でも、郵便や新聞を受け取るためのものは必ずある。  私自身のことを言うと、わが家には、昭和の35年(1960)ごろまで、郵便用のポストも、新聞受けもなかった。早朝に配達される新聞は、表通りに面した引き違いガラス戸の合わせ目のスキ間に差し込まれていたし、郵便物はたいてい、昼間は開けっ放しか、閉まっていてもカギを掛けていないガラス戸を、郵便屋さんが勝手にあけて「ヤマダさん、ユウビーン」と声をかけて投げ込んでいくという具合だった。家の者も、わざわざ立って行くこともしない。茶の間から「あー、ごくろうさん」と返事をするだけ。お互い顔をあわせることもないが、その頃は、近所のどこの家でもそんなことですんでいた。  ちゃんとしたポスト(郵便受け)のある家は、塀をめぐらした門構えのお屋敷か、門や塀はないが玄関がある家だけだった。私の家は畳屋。隣り近所が、ブリキ屋(薄板トタンの板金加工)、提灯屋、紺屋(和服の洗い張りから、染め直し、仕立て直しまでする染物屋)、鉄工所、車屋(荷車用の木製車輪の修理とスキや鍬の柄のすげ直し屋)、ぬし屋(漆塗り師であったが、廃業、屋号だけが残っている駄菓子屋)、自転車屋、といった職人仕事を家業にする家ばかりの町内だったから、ポストどころか玄関そのものがない家が普通だったのだ。だから、小学校高学年になって、図工の時間に木工工作で郵便受けを作り、赤エナメルで「〒」のマークを描き込んだ時は、なにやら誇らしいような、気恥ずかしいような気がしたことを覚えている。  そんな環境で育ったものだから、世の中に"ポストのない家"というものがあっても、別に不思議とは思わないでいた。ところが、30代も半ば頃になって、ある雑誌の取材で横浜港の周辺を歩きまわっていた時、偶然のことだが"ポストのない家"ならぬ"家のないポスト"に出会ってしまったのである。
 その頃、高島埠頭と呼ばれていた港の一郭、積荷の残りでもあろうか、無造作に積み重ねられた古材木の上に、ダンボール箱で作った郵便受けがポツリと置かれていたのだ。雨に濡れた張り紙の流れかかったインクの文字で、「3月31日午前9ジゴロニ、第三上□丸ハ□□入港シマス。新聞ハ引ツヅキ入レテ下サイ」とある。突堤の先端、古材の向こう側はもう水面しかないのである。こんなところに新聞配達は来るのだろうか? 郵便屋さんが来ることがあるのだろうか? と気になってしまったのだ。  現在は「みなとみらい21」としてベイエリアの中心地区になりすっかり様変わりしてしまったが、埋め立てられる前、高島町の港湾区域には、はしけ溜まりとして使われている埠頭があった。 そのポストのあったところも、そんな埠頭のひとつだ。港湾荷役の主流が、艀(ハシケ――大型の木造ダルマ船)からコンテナに変わる、ちょうどそんな時代でもあったのだが、まだ相当数の艀が現役で運行されていた。そのときにはじめて知ったのだが、艀 による輸送路は横浜港内だけでなく、近くの川崎港はもとより東京湾岸に連なる東京港や千葉県内の千葉港から木更津港あたりまで伸びており、たとえば横浜港から木更津までだと、片道で1泊2日の行程、これに貨物の積み下ろしや荷役の順番待ちなどで1日や2日が加わるのはふつうのことだったという。それならば、郵便受けにあった「第三上□丸」が、高島埠頭を出てから4、5日は帰ってこられないこともあるわけで、「新聞ハ引続キ入レテクダサイ」という張り紙の書置きも納得がいく。さすがにこの頃には、港湾荷役を家業にする家族全員が艀で生活する「水上生活者」という人たちはなくなっていたのだが、後日、ある艀の船長経験者から話を聞いたところでは、「家族はオカへ上がって暮らすようにして、ハシケの仕事はオレと母ちゃんだけで、しばらくやったなぁ」ということだった。それでも、この元船長さんの船にも、「オカ」に上がる前は、横浜市中区石川町“水の上ナニナニ番”で、郵便は届いたという。郵便受けは石川町の駅のすぐ下、中村川の護岸の杭につけて置いていたそうだ。このあたりは現在でもヨコハマ元町商店街はすぐ目と鼻の先、そんな場所にも「家のないポスト」があったとは、もう夢のようなというか、まぼろしというか……。     しかし、この元ハシケ船長さんの家のポストが備えられていたのは、(家が中村川の河岸につないである時にしろ、沖に荷役に出ていて「家のないポスト」状態であったにしろ)昭和30年代の後半までであったという。  あとでわかったのだが、全国の家庭にポスト(郵便受け)が普及したのは、実は昭和40年代にはいってからのことだったという。とすると、元ハシケ船長さんの家のポストや、わが家で自分が学校工作で〒の字を書いて誇らしく思っていた時期は、“全国平均”よりもかなり早かったことになる。元ハシケ船長さんたちのは必要に迫られてのことだから、当然なのだが、わが家のポストが早かった!と自慢してもしょうがない。  ただ、全国の家庭にポスト(郵便受け)が普及した昭和40年代の出来事というのが、後々まで、ポストについての、たとえば町並みの景観に与えた影響など興味あることどもに、影を落としているのである。あるいは、「マニュアル化」と、現代では常識的に使われている、人間の仕事の仕方(労働)についての、大きな変化などについても……。
  

               ――――― 続く ――――――