季刊身体雑誌

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2010年9月20日月曜日

「第二植物園」によせて


視覚の表現であるのに、その視覚を直接に刺激して心に響いてくるような写真というのが少なくなってしまった。「写真」というよりは「画像」という言葉がふつうに使われる時代だ、デジタルカメラで誰でも気軽に撮れるし、ネット上なら、それこそ全世界に向けた発表も手軽に出来る。そんな環境にあって、わざわざパネルにして展示するという方法で発表するということが、どういう意味を持つのか。これは会場に足を運び、実際に見なければ納得できないことだろう。ネット上の「画像」とは違う、あえて言えば見るという行為の、素朴な感動とでもいうものを覚えるのだ。
ここに展示されている作品は、どれも「樹の写真」としかいいようがない。昨今流行している癒し系のネイチャーフォトではない。深山幽谷の樹木というわけでもないし、観光名物の巨木でもない。撮影地は都心の植物園、郊外の雑木林、静岡県にある水源涵養林、せいぜい遠出しても沖縄県内で撮ったものだという。見ようとすれば誰でも見られるだろう。しかし、作者なりの独自の切り取り方(フレーミング)で撮影された木々は、植物図鑑の写真のような親切さはない。どれも作者の主観で切り取られているものばかりだ。時にマニアックなクローズアップも、よくもまぁここまで撮るかという、なにやら小気味良い感じさえする。ここにある木々は、どちらかといえばぶっきらぼうで、こちらから問いかけなければ何も答えてくれそうにない。そういう作品だからこそなのだろうか、一点、一点眺めていくうちに、かえって写真を撮る行為の積み重ね、作者の軌跡の重みといったものが伝わってくるような気がするのだ。そこに作者がいう共感と同じ感想を持てればよし、もてなくても別に困らないのが、写真という表現の自由でいい所でもあるのだが、自分なりに心に響いてくるものを、見る者が静かに「聴け」ば、それでもいいのだ。私には「くたびれるけど仕方がない、人間たちにもう少し付きあってやるか」という声が聞こえてきたりするのだ。