季刊身体雑誌

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2010年7月14日水曜日

60年目の解釈


夏祭りの頃 60年目の解釈

「行きな、黒兵衛。神輿の待つに、あだ名姿のおトミさん。餌をー、ゲンやだなぁー。」
と、ところどころ意味もわからないままに、大人の歌だからまぁそんなものだろうと、子供のときに、耳から聞き覚えていた流行歌がある。
 その頃の自分なりの解釈は、黒兵衛という犬に、飼い主の少年が、別れを告げ「行け」といい、おトミというあだ名の人がお神輿のところで待っているから、餌をもらいなさい。ゲンという名のその子どもは、自分は淋しいからいやだなーと、思っている(のだろう)」というものだった。
 それが、実は昭和29年(1954)に大ヒットした、「お富さん」という流行歌で、歌手は春日八郎だった。
正確には「粋な黒塀 見越しの松に 婀娜な姿の 洗い髪 死んだはずだよ お富さん 生きていたとは お釈迦様でも知らぬ仏の お富さん エ-サォ- 玄冶店」というものである。
当時自分は8歳、小学2年だったわけで、「粋(いき)」はもとより「黒塀」も「見越しの松」も知るはずがない。お富サンぐらいは、トミエという姉の名前に引っ掛けてからかった記憶があるから鮮明なのだが、あとは、とばしてのうろ覚え、まして元もとが歌舞伎の『与話情浮名横櫛』であったなどとは、想像のほかと言うか、歌舞伎そのものの存在すら知らなかったのだ。しかし、今、思い返すと、近隣の町や村での夏祭が、ちょうど今頃にあり、自分は母の実家のある村の、神社の境内にしつらえた舞台で、地方周りの芝居一座の演目で行われていて、この芝居の(これも後になって、知るわけだが)与三郎が、土地の顔役の赤間源左衛門に切り刻まれる場面だけが、鮮明に記憶に残っているのである。なにしろ地方周りの田舎芝居である、有名な源氏店の場よりは、前段の攻め場のほうが、サディスティックに、あざといくらいに強調されて演じられるのだ。これも後で知るのだが、そのころの母や、従姉の話題に上ると、この芝居(「しばや」と訛るのだが)の題は『切られ与三郎』であり、「よはなさけうきなのよこぐし」などという長ったらしいものでは、絶対になかったのだ。
ついでに記すと、『鏡山旧の錦絵』(かがみやまこきょうのにしきえ)』は『鏡山のお初』が千松を草履で打つ(ぶつ)話というのだが、千松は、『菅原伝授手習鑑』に出てくる子役なので、お初とは関係がない。これも、「おなかが減ってもひもじゅうない」という子役の有名なせりふだけが、頭に残っていての混同だろう。

地芝居の話に続く