季刊身体雑誌

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2010年12月24日金曜日

非eの世界とは……

“非の世界”について解説をします。
メールじゃないメール、つまり紙に書かれたメール(手紙)のある世界、というか、それを待っている人びとの営みを、郵便受け(ポスト)の映像を通して表現してみようという試みです。
いまや、ラブレターさえeメールのほうが主流、心待ちにする紙の書信といったら、一年に一回の年賀状か、時々の趣味の絵手紙といったものでしょうが、日常に流通する通信でみたらごく少数派でしょう。私自身の家のポストにも、入ってっているのは、DMか、携帯電話の自動引き落としの領収書とか、なにやら雑多な請求書類がほとんどで、心をときめかせてやり取りする紙の手紙などは皆無です。
そんなものだろうと思っていてなんとなく納得しているのですが、改めて街のあちこちを見てみると、味も素っ気もないDMだの事務的な通信書類だけを待っているとは思えない、郵便受け(ポスト)に出会うのです。
そんなポストのいろいろを並べてみると、やっぱり人はいつまでたっても、紙の手紙を待っているのではないのだろうかと……思えてくるのです。これから、数ヶ月そんな郵便受けのある風景を、掲載していきます。
「非eの世界」というのは、SFの古典の一つ、F・ヴオークト「非Aの世界」からの借用、現代の街角のポストの風景は、私にはSF的に見えるのです。

2010年12月9日木曜日

非eの世界:第一話


ポストのない家と家のないポストの話
今の世の中、ポスト(郵便受け)のない家はない。一戸建ての家でも、マンション、アパートといった集合住宅でも、郵便や新聞を受け取るためのものは必ずある。  私自身のことを言うと、わが家には、昭和の35年(1960)ごろまで、郵便用のポストも、新聞受けもなかった。早朝に配達される新聞は、表通りに面した引き違いガラス戸の合わせ目のスキ間に差し込まれていたし、郵便物はたいてい、昼間は開けっ放しか、閉まっていてもカギを掛けていないガラス戸を、郵便屋さんが勝手にあけて「ヤマダさん、ユウビーン」と声をかけて投げ込んでいくという具合だった。家の者も、わざわざ立って行くこともしない。茶の間から「あー、ごくろうさん」と返事をするだけ。お互い顔をあわせることもないが、その頃は、近所のどこの家でもそんなことですんでいた。  ちゃんとしたポスト(郵便受け)のある家は、塀をめぐらした門構えのお屋敷か、門や塀はないが玄関がある家だけだった。私の家は畳屋。隣り近所が、ブリキ屋(薄板トタンの板金加工)、提灯屋、紺屋(和服の洗い張りから、染め直し、仕立て直しまでする染物屋)、鉄工所、車屋(荷車用の木製車輪の修理とスキや鍬の柄のすげ直し屋)、ぬし屋(漆塗り師であったが、廃業、屋号だけが残っている駄菓子屋)、自転車屋、といった職人仕事を家業にする家ばかりの町内だったから、ポストどころか玄関そのものがない家が普通だったのだ。だから、小学校高学年になって、図工の時間に木工工作で郵便受けを作り、赤エナメルで「〒」のマークを描き込んだ時は、なにやら誇らしいような、気恥ずかしいような気がしたことを覚えている。  そんな環境で育ったものだから、世の中に"ポストのない家"というものがあっても、別に不思議とは思わないでいた。ところが、30代も半ば頃になって、ある雑誌の取材で横浜港の周辺を歩きまわっていた時、偶然のことだが"ポストのない家"ならぬ"家のないポスト"に出会ってしまったのである。
 その頃、高島埠頭と呼ばれていた港の一郭、積荷の残りでもあろうか、無造作に積み重ねられた古材木の上に、ダンボール箱で作った郵便受けがポツリと置かれていたのだ。雨に濡れた張り紙の流れかかったインクの文字で、「3月31日午前9ジゴロニ、第三上□丸ハ□□入港シマス。新聞ハ引ツヅキ入レテ下サイ」とある。突堤の先端、古材の向こう側はもう水面しかないのである。こんなところに新聞配達は来るのだろうか? 郵便屋さんが来ることがあるのだろうか? と気になってしまったのだ。  現在は「みなとみらい21」としてベイエリアの中心地区になりすっかり様変わりしてしまったが、埋め立てられる前、高島町の港湾区域には、はしけ溜まりとして使われている埠頭があった。 そのポストのあったところも、そんな埠頭のひとつだ。港湾荷役の主流が、艀(ハシケ――大型の木造ダルマ船)からコンテナに変わる、ちょうどそんな時代でもあったのだが、まだ相当数の艀が現役で運行されていた。そのときにはじめて知ったのだが、艀 による輸送路は横浜港内だけでなく、近くの川崎港はもとより東京湾岸に連なる東京港や千葉県内の千葉港から木更津港あたりまで伸びており、たとえば横浜港から木更津までだと、片道で1泊2日の行程、これに貨物の積み下ろしや荷役の順番待ちなどで1日や2日が加わるのはふつうのことだったという。それならば、郵便受けにあった「第三上□丸」が、高島埠頭を出てから4、5日は帰ってこられないこともあるわけで、「新聞ハ引続キ入レテクダサイ」という張り紙の書置きも納得がいく。さすがにこの頃には、港湾荷役を家業にする家族全員が艀で生活する「水上生活者」という人たちはなくなっていたのだが、後日、ある艀の船長経験者から話を聞いたところでは、「家族はオカへ上がって暮らすようにして、ハシケの仕事はオレと母ちゃんだけで、しばらくやったなぁ」ということだった。それでも、この元船長さんの船にも、「オカ」に上がる前は、横浜市中区石川町“水の上ナニナニ番”で、郵便は届いたという。郵便受けは石川町の駅のすぐ下、中村川の護岸の杭につけて置いていたそうだ。このあたりは現在でもヨコハマ元町商店街はすぐ目と鼻の先、そんな場所にも「家のないポスト」があったとは、もう夢のようなというか、まぼろしというか……。     しかし、この元ハシケ船長さんの家のポストが備えられていたのは、(家が中村川の河岸につないである時にしろ、沖に荷役に出ていて「家のないポスト」状態であったにしろ)昭和30年代の後半までであったという。  あとでわかったのだが、全国の家庭にポスト(郵便受け)が普及したのは、実は昭和40年代にはいってからのことだったという。とすると、元ハシケ船長さんの家のポストや、わが家で自分が学校工作で〒の字を書いて誇らしく思っていた時期は、“全国平均”よりもかなり早かったことになる。元ハシケ船長さんたちのは必要に迫られてのことだから、当然なのだが、わが家のポストが早かった!と自慢してもしょうがない。  ただ、全国の家庭にポスト(郵便受け)が普及した昭和40年代の出来事というのが、後々まで、ポストについての、たとえば町並みの景観に与えた影響など興味あることどもに、影を落としているのである。あるいは、「マニュアル化」と、現代では常識的に使われている、人間の仕事の仕方(労働)についての、大きな変化などについても……。
  

               ――――― 続く ――――――

2010年11月4日木曜日

ホームページが時間切れ!


 5年近く活用してきた無料のサーバーが、ついに時間切れで終わってしまった。
当方もうっかりしていたのだが、予告は無かったように思う。元々ただなのだから、文句も言えないのだが、うーん困った……というところです。
 さて、前回の続き「記憶を表現することの難しさ」といったことについて、展開するつもりでいて、やっぱり『身体雑誌』としては大脳生理学とか、神経学といったところから、秋の夜長、すこし勉強しようと思って始めたのですが、そんな知識は古臭くて、現在は「認知学」という学際的な領域でないと記憶の研究は考えられないようで、脳生理学から、神経科学はもとより遺伝学、心理学から言語学、人類学、哲学まで、それからそれへと、テキストが飛び移ってんでしまい、すっかり分からなくなってしまったのだ。
 もう、数日で勉強終わり、あとは“レポートの提出”だけ、というところまで来たので、掲載します。


2010年10月5日火曜日

記憶は共有できるのか


記憶を表現することの難しさ

渋谷秀雄写真展
第2部「帝都防衛・アジア太平洋戦争遺産・遺物」
について

 今年、2010年は先の世界大戦(※註1)の終戦から65年めの年ということで、テレビでも多くのドキュメンタリー番組を見ることが出来た。私が興味深く思ったのは「(戦争の)記憶が失われていく」から、何とかこれを伝えたい、伝えていかなければならない。という作者たちの熱意というか、動機(モチーフ)である。それ自体は決して悪いものではない、悪いものどころか、たんにモチーフではない、それが今一番大事なテーマでもあろうと、私も考えていたからだ。
 65年もの時間がたてば人の記憶は薄れるだろうし、その薄れ方の濃淡も人によって様々であるはずだ。せめて共通の体験があれば、それぞれの記憶を持ち寄って、濃淡の調整も出来よう、それで何とか共有できる〈一つの時代の歴史〉のようなものになるかもしれない。そこから共通の教訓や、未来への知恵として語り継ぐものが発見できるなら、それに越したことはない。しかし作者たちも、見る人たちも、他ならぬ私自身も、戦争を経験していないし、「戦争を知らない子どもたちさぁ~」などという歌を口ずさんだこともある世代が、もう50歳台の後半から60歳に達しているのである。
 そんな時代にあって、記憶を共有する、なんてことは出来るのか? 
 かつてあった戦争の記憶を掘り起こすといったテーマのルポルタージュやドキュメンタリー作品、更にはフィクション(映画や小説)のほとんどは、共有出来るという前提、あるいは共有しなければという熱意。共有したいという、切ない希求のようなものがあって作られているのだから、始めから出来ないといってしまうと、話が進まないのだが、そこで、じゃぁそういった「記憶」をどう表現して伝えるか。
 TV番組のいくつかは、個人の記憶を頼りに、本人へのインタビューや語り、残っている事物や記録類の映像、現在の風景などを見せる、といったオーソドックスな方法であった。さすがに(記憶は共有出来るという前提にたって)「どうだ分かったろう、だから戦争はしちゃぁいけないんだ」「……だから、平和運動に共鳴しろ」といった類のノーテンキな作品はなくなっている。むしろそういう、戦後何年か何十年かの「平和運動」も含めての(苦い)記憶が語られている作品があり、そういうもののほうに私は共感したのだ。この時代なら、わたしにも少しの経験があるし、けっこう生々しい記憶もある。そこで、私に共感できたということを手がかりに考えてみたいのだが、やっぱり記憶というのは人それぞれ、一人ひとりで異なるもので、記憶の共有なんてむりだ。それでも過去の記憶に関わる作品を作るとすれば、どうやって、それぞれが別個にしかもてない記憶というものを、共有できるものとして扱い、お互いの共感へと深めていくか、それが作品を作る側に十分に意識されていないと、とんでもない間違いを犯すことになると、私は考えたのだ。
 
 【続きは明日】



http://www.flickr.com/photos/sby_world/sets/72157623517629012/show/

(※1)作者の渋谷君は「アジア太平洋戦争」という呼称を採用している。
私は小学校で「太平洋戦争」と習った記憶(!)が強いのと、学校の外では「大東亜戦争」で負傷した軍人(傷痍軍人)と呼ばれる人が、ハーモニカやアコーデオンを奏でながら、募金(物乞い)をしていた情景の記憶が鮮明なのだ。そんなことから、もしかしたら「大東亜戦争」と呼んだ方が、政府や軍部だけでなく、当時の人々の心情も想像できて、歴史の実態をつかめるかもしれないとも考えているのだが、通常は「先の大戦」とか「第二次世界大戦」ですませている。こんな中途半端な〈個人の記憶〉なのに、やっぱり歴史の刻印が捺されているんだろうなぁと思う。

2010年9月20日月曜日

「第二植物園」によせて


視覚の表現であるのに、その視覚を直接に刺激して心に響いてくるような写真というのが少なくなってしまった。「写真」というよりは「画像」という言葉がふつうに使われる時代だ、デジタルカメラで誰でも気軽に撮れるし、ネット上なら、それこそ全世界に向けた発表も手軽に出来る。そんな環境にあって、わざわざパネルにして展示するという方法で発表するということが、どういう意味を持つのか。これは会場に足を運び、実際に見なければ納得できないことだろう。ネット上の「画像」とは違う、あえて言えば見るという行為の、素朴な感動とでもいうものを覚えるのだ。
ここに展示されている作品は、どれも「樹の写真」としかいいようがない。昨今流行している癒し系のネイチャーフォトではない。深山幽谷の樹木というわけでもないし、観光名物の巨木でもない。撮影地は都心の植物園、郊外の雑木林、静岡県にある水源涵養林、せいぜい遠出しても沖縄県内で撮ったものだという。見ようとすれば誰でも見られるだろう。しかし、作者なりの独自の切り取り方(フレーミング)で撮影された木々は、植物図鑑の写真のような親切さはない。どれも作者の主観で切り取られているものばかりだ。時にマニアックなクローズアップも、よくもまぁここまで撮るかという、なにやら小気味良い感じさえする。ここにある木々は、どちらかといえばぶっきらぼうで、こちらから問いかけなければ何も答えてくれそうにない。そういう作品だからこそなのだろうか、一点、一点眺めていくうちに、かえって写真を撮る行為の積み重ね、作者の軌跡の重みといったものが伝わってくるような気がするのだ。そこに作者がいう共感と同じ感想を持てればよし、もてなくても別に困らないのが、写真という表現の自由でいい所でもあるのだが、自分なりに心に響いてくるものを、見る者が静かに「聴け」ば、それでもいいのだ。私には「くたびれるけど仕方がない、人間たちにもう少し付きあってやるか」という声が聞こえてきたりするのだ。

2010年9月12日日曜日

樹の写真展・続き2「帝都防衛」

樹の写真展・他・続き


 
展示される写真はどれも「樹の写真だ」としかいいようが無い。深山幽谷の樹木というわけでもない、観光名物の巨木というものでもない。撮影地は都心の植物園、郊外の雑木林、静岡県の湿地、せいぜい遠出して沖縄県で撮ったものだという。見ようとすれば誰でも見られる対象だろう。しかし、作者なりの独自の切り取り方で撮影された木々のたたずまいを、一点、一点眺めていくうちに、作者の行動の軌跡、行為の積み重ねの重みといったものが伝わってくる。そうして、心に響いてくるものを、見る者が静かに「聴け」ばいいのだろう。
そして、もうひとつ、この作者ならではの対象の切り取り方(フレーミング―――写真という表現手段は、それが対象との距離感、時には作者の世界観や歴史観、人生観といったものまでもあらわすのだが)その独特な距離感で作られた『帝都防衛』というルポルタージュ風の作品も同時に展示されている。こちらも一見の価値はある。

樹の写真展・他


 友人が写真の個展を開く。『第二植物園』ファインダーの中の樹木派(9月28日~10月6日・新宿眼科画廊)
 言葉で説明しようとすると、「これは樹の写真だ」というしかないし、気それで十分なのだ。
あとはただ見ればよい。
 視覚の表現であるのに、その視覚を直接に刺激して心に響いてくるような写真というのが少なくなってしまった。「写真」というよりは「画像」という言葉がふつうに使われる時代だ、誰でも気軽に撮れるし、ネット上なら、それこそ全世界に向けた発表も手軽に出来る。だから、あらためて表現の手段として写真を選び、大判のパネルにして展示するという方法で発表するということが、かえって気恥ずかしいような錯覚に陥りかねない。そんな中でやる展覧会の会場の名前が、「眼科画廊」だという。
 私のような、オールド・アヴァンギャルド世代には、画廊といえば、'60年代現代美術の伝説的存在である「内科画廊」がたちまち思い浮かぶのだが、現代のアヴァンギャルド(前衛)たちには、それほど気負ったところは無いらしく、もっと軽い気持ちで「美術は眼にいいから眼科」とつけたらしい。内科画廊のほうは本当の内科医院を転用したそうだが、よく考えてみればこちらもネーミングとしてはイージーというか、なんというか、そのまンまなわけだから、やっぱり軽いのか。ここを拠点にした作家たちの、その後の活動の世界的な展開を考えるから、ものすごい前衛的な、伝説の画廊……! などと、勝手に思い込んでしまうのか。
 ともかくそこでやる写真作家は、渋谷秀雄という。【詳しくは・明日】

2010年9月2日木曜日

参考 リキテンシュテイン

スーパーアクリックスキン


松浦浩之さんの個展"SuperAcrylic Skin"を見てきた。
大きいものは、2メートルくらいの高さもあろうか、特製のパネルにアクリルで、アニメのキャラクターのようなキャラクター(!)が描かれている。これは、実物を見ないとなかなかその芸術性を実感できないのではないかと思った。同じようなアイデア、と言ったら、引用するアーチストの方々に失礼だろうが、ほかにいい言い方を思いつかないので「アイデア」といわせてもらうとして、'60年代のポップアートのスーパースターの一人であるロイ・リキテンシュタインを、私は思い浮かべていた。リキテンシュタインのほうは漫画(アメ・コミ)の1コマを、印刷の網(アミ)点まで拡大強調して描くという技法で、その時代(アメリカはベトナムで戦争をしていたのだ!が)に美術(家)として、かかわっていた(とされる)。時代に対する姿勢とか、状況へのコミットの仕方などのことは、実は個々の作品、作家にはかかわりのないことも多いのだから、無理やりと言うか、批評家的に関連付けをしたりしていう必要はないと、私は思う。だから、アメ・コミの1コマを引用したリキテンシュタイン、アニメのようなキャラの松浦さんのを、モチーフとかテーマと言わないで、「アイデア」とあえて言うわけだが、両者に共通することは、引用元(松浦さんの場合は、引用ではなくキャラクターもオリジナルなのだが)の拡大と画材(絵の具)の選択ではなかろうかということだ。例えば、と夢想するのだが、リキテンシュタインも松浦作品も、シルクスクリーンでやったら意味がない。そこのところが、版画のウオホールと違うと思うのだが、あくまでタブローとして、手で、しかも綿密に(はたから素人目で見ると、何でここまでやるのか、馬鹿ばかしい、と思えるほど)丁寧に描かれているのが、実物を見るとわかってくる。例えば、松浦作品はすべて、アニメのような透明感のある画質をアクリル絵の具で表現している。このこだわりようが、私には、面白かったし、芸術作品はこうでなくっやぁと、思えたのだ。リキテンシュタインも実物を見ると、アホらしいほど律儀に“点々”を描いているのだ。絵を描くという作家のいとなみの意味(無意味)も理解できるのだ。これを芸術作品を前にして、見るものが受けとる感動と言う。【続く】

2010年8月30日月曜日

生まれて初めての塗り絵


私は大脳皮質基底核変性症という難病で、現在右半身が麻痺。週に2回、通所デイサービスのお世話になっている。私の場合、病気の進行が早いのかどうか。去年の今頃はまだ麻痺も今ほどはなく、自分で車を運転して病院に通院していたのだが、一年たたない現在は、車椅子の生活である。そんな毎日で、右手の自由はほとんど利かないから、食事はもちろん、細々した生活の一切は左手に頼るしかない。右手では文字も書けないし、まして絵を描くなどは思いもよらず、以前は趣味でやっていた水彩画の写生もあきらめていた。
 そんなときに、デイのレクリエーションで塗り絵の機会があったのだ。大人が楽しめる塗り絵といったものがあると、聞いたことはあったのだが、健常な頃は見向きもしなかったし、病気になってからは心のゆとりも無くしていたから、デイで実際に手にするまでは、自分がやろうとは、思ってもいなかった。実を言うとレクの時間が始まっても、半信半疑、塗り絵なんて子供だましな……と思ったり、どうせ左手では満足に塗れそうもないから、適当に過ごそうと思っていたのである。
 それが、いざ始めてみるとけっこう面白いどころか、いつの間にか熱中、時間がたつのも忘れて夢中になっていたのである。ふと顔を上げてまわりを見ると、早々と仕上げた人は、いつものようにお喋りをしているようだが、90歳のAさんや85歳のKさんは、まだ紙に顔をくっつけるようにクレパスを持ち熱中している。私も、色鉛筆で仕上げた自分の作品を眺め、不思議な気分がしていたのだ。色を塗るだけのことに何故、みんなこれほど夢中になれるのか、いまだに解らないのだが、楽しく我を忘れるひと時ではあったのだ。この年になると、生まれて初めての体験をするなどという機会はめったにない。塗り絵は、私にとって、そんな稀有な体験をした嬉しい驚きでもあったのだ。

2010年7月14日水曜日

60年目の解釈


夏祭りの頃 60年目の解釈

「行きな、黒兵衛。神輿の待つに、あだ名姿のおトミさん。餌をー、ゲンやだなぁー。」
と、ところどころ意味もわからないままに、大人の歌だからまぁそんなものだろうと、子供のときに、耳から聞き覚えていた流行歌がある。
 その頃の自分なりの解釈は、黒兵衛という犬に、飼い主の少年が、別れを告げ「行け」といい、おトミというあだ名の人がお神輿のところで待っているから、餌をもらいなさい。ゲンという名のその子どもは、自分は淋しいからいやだなーと、思っている(のだろう)」というものだった。
 それが、実は昭和29年(1954)に大ヒットした、「お富さん」という流行歌で、歌手は春日八郎だった。
正確には「粋な黒塀 見越しの松に 婀娜な姿の 洗い髪 死んだはずだよ お富さん 生きていたとは お釈迦様でも知らぬ仏の お富さん エ-サォ- 玄冶店」というものである。
当時自分は8歳、小学2年だったわけで、「粋(いき)」はもとより「黒塀」も「見越しの松」も知るはずがない。お富サンぐらいは、トミエという姉の名前に引っ掛けてからかった記憶があるから鮮明なのだが、あとは、とばしてのうろ覚え、まして元もとが歌舞伎の『与話情浮名横櫛』であったなどとは、想像のほかと言うか、歌舞伎そのものの存在すら知らなかったのだ。しかし、今、思い返すと、近隣の町や村での夏祭が、ちょうど今頃にあり、自分は母の実家のある村の、神社の境内にしつらえた舞台で、地方周りの芝居一座の演目で行われていて、この芝居の(これも後になって、知るわけだが)与三郎が、土地の顔役の赤間源左衛門に切り刻まれる場面だけが、鮮明に記憶に残っているのである。なにしろ地方周りの田舎芝居である、有名な源氏店の場よりは、前段の攻め場のほうが、サディスティックに、あざといくらいに強調されて演じられるのだ。これも後で知るのだが、そのころの母や、従姉の話題に上ると、この芝居(「しばや」と訛るのだが)の題は『切られ与三郎』であり、「よはなさけうきなのよこぐし」などという長ったらしいものでは、絶対になかったのだ。
ついでに記すと、『鏡山旧の錦絵』(かがみやまこきょうのにしきえ)』は『鏡山のお初』が千松を草履で打つ(ぶつ)話というのだが、千松は、『菅原伝授手習鑑』に出てくる子役なので、お初とは関係がない。これも、「おなかが減ってもひもじゅうない」という子役の有名なせりふだけが、頭に残っていての混同だろう。

地芝居の話に続く

2010年7月1日木曜日

2010年6月21日月曜日

なぜ「身体」なのか―1

 1 手思足考
 身体についての雑誌を作ろうと思い立ったのは、もう20年もまえのことになる。自分の頭の働き具合と身体の動きがちょうど釣り合ってきたかな……と思われた時期でもあった。
 それまでは、頭が考えることは、何でもできる。体はそういう要求に十分に応えていると思っていたのだ。ところが40代の半ばを過ぎたころから、頭で考えることの半分もできていない、そう思うことが増えてきたのである。だからと言って、そのころも、つい先年までも“五体満足”だったから、日常生活で不自由するということではない。そうではなくて、青春期から壮年期まで、それほど気にすることもなく過ごしてきた、理想と現実のギャップというか、夢とうつつの乖離とでも言おうか、そういう問題に突き当たってしまったのである。それまでも、実社会にあれば誰でも理想と現実のヤップなどは、ごく当たり前にぶつかることである、ただ、それでもまだ壮年期までなら、これくらいのギャップは自分の努力で埋めることができるとか、夢はまだ実現できる、という希望を持っていられる(あるいは、希望にすがっていられる)のでもある。なにしろ理想や夢は、もともとは頭で考えるだけで済むようなことでもあるからだ。しかし、中年期にさしかかると、理想や、夢の実現の不可能さ加減ということが、頭の中だけでなく、自分の身体の体験、実感としても感じられるようになってきたのだ。これは、あまり嬉しいことではない。スポーツの選手なら「引退」というようなことでもあろう。中年期の危機でもある。
 そんなことを考え、また実際に身体も歳相応にしか動かないなぁ……と思い始めていたときに、出会ったのが「手思足考」という言葉であった。
 竹橋にある近代美術館の工芸館で開かれていた陶芸家の河井寛次郎展の会場でのことだった。会場に書が展示されていた記憶はないから、そこにあった年譜か解説文か何かで見た(読んだ)のだろう。その時に思ったことは「なぁんだ、そうか(陶芸をやるのに)頭はいらないんだ(!)」という驚きであった。
 試みに、今この言葉を検索してみると、河井寛次郎関連のサイトはもちろん、ジャーナリスト、工芸作家、大学の研究室、建築家のホームページ、園芸家のブログから、無農薬野菜の通販サイトまで、じつに様々仕事に携わっている人たちが、この手思足考を引用しているのだ。河井寛治郎の言葉がこれほど多くの人々に知られ、それぞれの人に勇気や、やる気、あるいは人それぞれの道を行くことの確信の言葉として、使われていることに、改めて感心したのだが、20数年前には考えられないことだった。
 私はただ単純に「頭はいらない」と理解しただけだったし、それで十分だった。

2 Hand to mouth
その後の何年間か、貧乏暮らし、その日暮らしが続いた。今、相変わらず金は無いが、パソコンを使うくらいの少し余裕が出来て、「その日暮らし」を英訳すると「Hand to mouth」で、あぁ、やっぱりここでも「頭はいらないんだ」と、シャレ混じりに書くことも出来るのだが、そのころの日々を思い出すと、実際、頭で考える余裕なんか無い、朝飯もそこそこに働きに出て、夜帰れば、晩飯食ってバタンQと寝てしまう、という暮らしだった。 


 

未完 まだ続きます

2010年6月17日木曜日

身体雑誌の表記のポリシー


実は、わがweb mgazin「季刊身体雑誌」で、ゴダールの映画「気狂いピエロ」に触れるつもりなのだが、わがパソコンのワードプロセッサーでは"気狂いと"と入力できないし、1965年公開のこの映画の題名「Pierrot Le Fou」の邦題が「キチガイ」なのか「キグルイ」なのかと、たとえばポスターのコレクターの間などでは、大まじめに論議されていることも、 検索をかけると知ることができた。これには正直言って驚いたのだ。「キグルイ」などという言葉は、何のオタクのあいだでも、まだ発明されていないだろうに......。

  これでは、わが雑誌も真剣に受け止めて、表記には十分気を配ろう、と考えさせられたのだ。そこで、以下……

  「しょうがい」、「しょうがいしゃ」の表記には、一般に「障害」「障害者」が使われている。ところがここ10数年来、これがいわゆる「差別語」にあたるのではないか、ということで「障碍」と書き代えたり、「障がい」と一部を平仮名にすることで、差別ではない---少なくとも記述している当人には差別意識はないというアリバイにはなっている--ということで、この平仮名混じりの表記などは自治体の福祉関係の広報などでは、多用されるようになっている。

 結論をさきにいうと、わが『季刊身体雑誌』では、編集長を含め、しょうがいを持つ人たちについての表記は、他の文章からの引用以外は、"被障害"、"被障害者"とすることにした。

 これは、三友堂リハビリセンター部長川上千之氏の 「しょうがい」「しょうがいしゃ」の表記について考える」(『SSKPアビリティーズ』09年12月号)という記事に触発されたからなのだ。

 川上氏はこの記事で「しょうがい」という言葉の歴史についても触れられているので、引用させていただく。

 ---「しょうがい」の表記がどのような歴史を辿って来たかについて正しい認識を持つために近世における「しょうがい、しょうがいしゃ」の表記に関する歴史について確認しておきたい。

―― 近世の日本において「しょうがい」が公文書等の中でいかに表記されてきたかについては小川創生氏(大和総研)の調査がある。それによると明治時代においては身体の状態についての表現である障害、障礙については、双方の表記がやや混乱して用いられていたが、いずれの表現も使用頒度は高いものではなかったようであった。戦前には人に対する表現としての「障害者」又は「障礙者、障碍者」はみられなく、現在の障害者にあたる表現は「不具者、不具廃疾者」などの、項在では差別語とされている表記であり、「障害」にあたる表記も「不具、廃疾」が主流であった。「障害、障害者」の表記が戦後において使用されるようになったのは1949年(昭和24年)の身体障害者福祉法制定が契機となっていた。 

 その後「障害、障害者」の表記が-般に使用されるようになっていったが、その際「障礙、障碍」が用いられなくなったのは1946年(昭和21年)に行われた当用漢字の制定により「礙」や「碍」が当用漢字から外されたことも大きな要因であった。戦前には「礙」や「碍」も一般に用いられていたが、戦後、当用漢字の制定で使用できなくなったので同音の「害」の表記が用いられるようになったとの歴史認識の上に立ち、「障害」を「障擬または障碍」に戻すべきであるとする意見が多いようであるが、それは上に述べた表記の歴史上の事実という点からは妥当性が少ないもののように思われる。

 その上で、「障害」は「障害者」の側にあるのではなくむしろ障害者に対して「健常者」の社会が作っ-いる壁あるという考え方も可能である。障害を持っている人たちはむしろ健常者社会から障害を受けている人たちであるとし1う様に考えられるので、これまで「障害者」と呼ばれていた人たちを(「被保険者」に習って)「被障害者」と呼んだ方がむしろ要当なのではないかと思われる」と言う。

 これまでも、様々な言葉が「差別語」、「差別用語」だとしてマスコミはもちろん、日常生活の隅々からも、消し去られていった。だからと言って、差別はなくなったわけではない。むしろ隠蔽されるか、教育の場でさえ見て見ぬふりを助長するだけではなかったのか。 わが「季刊身体雑誌」は、こういう言葉狩りにも反対なのだ。